日本人の風景   ― 塩田研一覚書帳 ―


無宗教の「無」

 大野晋著「日本人の神」に、日本人と西欧人では自然に対する見方が違うということが書いてあります。 日本の自然環境は良すぎるのだそうです。 「里山」と呼ばれる程度に人間がゆるやかに手を加えるだけで、自然環境は充分に人間を養ってくれます。 これに対し西欧では自然は厳しく、それだけでは何の恵みももたらしません。 人間が生きてゆくためには自然環境を激しく攻撃しなければなりません。 そのことが八百万の神か一神教かという差を生み出している、という論理がこの本では展開されてゆきます。

 日本人はですから、自然の声を聞いてそれに応えてゆくことが大切になります。 時に自然は大暴れして甚大な災害を引き起こすこともありますから、自然が暴れ出しそうな声も聞き分けなければなりません。 至る所に神さまがいて、あらゆるものから人はものを学ばなければなりません。 そのようにして日本には八百万の神さまがお住まいになるようになったのでしょう。

 やがて仏教が入ってきて、それに対抗して神道が唱えられましたが、日本人にとっては仏さまも神道の神さまもやっぱり八百万の神さまのお仲間であって、 お寺でも手を合わせ、お宮でも手を合わせ、それで何の矛盾も無いのです。

 教育テレビの「こころの時代」であったかと思いますが、養老孟司さんが、 日本人は無宗教だと言われるけれど、その「無」は「無い」という意味ではなくて、 仏教で言うところの「無」の境地ではないかとおっしゃっていました。 神さま・仏さまがいらっしゃるということは当たり前のことであってことさら意識することも無い。 教義というものを構える必要も無いのだ、と。 とても適切な解釈を聞いたとように思います。

 競争や攻撃が基本にある西欧人の論理が世の中を支配することは、日本人にとっては極めて良くないことではないかと思うのです。

盗人送り

 宮本常一氏の「民俗のふるさと」に書いてある話です。 新潟県下では、集落で泥棒があってなかなか犯人がわからないとき、盗人(ぬすびと、ぬすっと)送りということをしました。 藁人形を作って、祈祷をしてからこれを盗人の代わりにみんなで痛めつけ、川に流したりしたそうです。 犯人が集落外の人間であったなら捕まえようも無いので、これで行き場の無い怒りを収めたのでしょうし、 もし集落内に犯人がいるのなら、 犯人を最後まで追い詰めて最悪の事態を招くより、こういうことで決着をつけようという知恵だったようです。

 お賽銭やお供え物というのも、神さま仏さまへの感謝の意味の他に、 困窮した人が集落で盗みを働くのを予防する効果があったのではないかと思うのです。 お賽銭に手を出さないといけないくらい困っているのなら、どうぞ持って行ってください。 その代わり家々には泥棒に入らないでくださいね、と。

 悪いことは悪い、罪を犯した者は必ず裁かれるべきである、と正義を振りかざすことが、 本当に全ての場合に良いことなのかどうか、少し考える余裕を持つことが今の時代は必要なのではないでしょうか。

 参考リンク:

剣道の達人

 2007年5月、安芸郡芸西中学校の剣道部監督をされていた先生が七段の昇段試験に合格されました。 合格率わずか 9% の試験を36歳の若さで一発合格したということで話題になり、 新聞やテレビニュースに取り上げられました。 そのインタビューで先生がおっしゃった言葉。 生徒さんたちに望むことは

 剣道を学ぶ と言うより 剣道で 学ぶ

大切なことは剣道を通じて人としての道を学ぶことであって、 剣道はそのためのひとつの手段にすぎない、と。 心血を注いで指導した生徒さん達が必ずしも剣道で大成しなくても構わないのだと。 剣道の達人が言う、重みのある言葉です。

 大学のゼミで学生は研究分野 ・ 研究テーマを選択しますが、 その分野で一生働ける訳でもありませんし、 大学で修めた知識だけで一生働ける訳でもありません。 大学で身につけるべきことは「勉強の仕方」であり、そして、「人としての道」です。 頭が良くて悪意のある人間がいちばんたちが悪い。

 いくら学問ができても 人間ができていなければ 何の値打ちもありません

不徳の致すところ

 近江商人には「三方よし」という教えがあります。買い手よし、売り手よし、世間よし。 商売と言うものは、買い手、売り手、世間すべてに恩恵をもたらさなければならない、という考え方です。
 一番目は買い手。まずは買った人のためにならなければなりません。 自分の商売が人の役に立つからこそ、その対価として儲けを得ることができます。 そして、世の中全体が良くなることを願う気持ちを忘れてはいけません。
 近江商人の郷へ行くと、さほど大きくないお宮に驚くほど立派な鳥居が立っていることがあります。 飢饉の年に近江商人は鳥居を寄進することによって雇用を生み出し、困窮した人々を救済したのだといいます。 歴史的建造物の保存問題で有名な豊郷(とよさと)小学校は、 近江商人の古川鉄治郎氏が当時の町の年間予算の10倍もの建築費を寄付してできたものです。

 日本人は「徳を積む」ために生きている、というところがあるように思います。 労働とは世のため人のためになることをすることであって、 給与はあとから付いて来るものだと。
 何か自分の身に悪いことが起こっても、 それは「不徳の致すところ」、 自分の徳の積み方が足りないからだと考えて、 人を恨むこともせず、 運を嘆くこともせず、 もっと徳を重ねていかないといけないと考えるのが日本人ではないでしょうか。

 かつて NHK で「未来をつくる君たちへ 司馬遼太郎作品からのメッセージ」という番組がありました。 坂本龍馬の生まれたまちの高知市立城西中学校に実業家の方が来られて、生徒さんたちに坂本龍馬のことを教えてあげよう、という企画です。
 「何のために勉強してんの?」
と問い掛け、生徒さんたちの答えを聞いた後で実業家さんは、
 「君たちが幸せになるために勉強している。」
と結論付けます。生徒さんからの反論。
 生徒Aさん「父が話してたんですけど、人は人を幸せにするために生まれてくるって。」
 生徒Bさん「僕はその通りだと思います。」
 実業家さん「僕は申し訳ないけど一度たりともそんなことを思ったことはありません。」
坂本龍馬は自分の好きなことを追究した結果、維新を成し遂げたのだ、という論理なのですが、 どうみても生徒さんの方が大人に思えます。

 参考リンク:

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